社会・思想

昨今の撮り鉄批判に対する疑問|「同じ写真ばかり」はダメ?

最近、私の趣味で2ちゃんねるのスレまとめ動画を見ることにハマっている。
そしてこの中で人気テーマとして撮り鉄がある。撮り鉄の人と、それを批判する人がレスバしている様子をまとめた動画である。

これらを見ている中で、ふと私が思ったことがある。

撮り鉄に対して、理不尽に叩きすぎじゃない?

撮り鉄と呼ばれる方たちの迷惑行為は確かに非難されるべきではあるものの、その範疇を超えたバッシングが多くない?
それってもう撮り鉄という趣味自体を否定していない?

今回は私の撮り鉄批判に関する考えを綴っていく。
本記事を一つの材料として、皆様にも撮り鉄批判のあり方を考えていただきたい。
また是非ご意見も書き込んでいただければと思う。

「ぼくの色眼鏡哲学」管理人のながたるみおです。ご訪問いただきありがとうございます。
撮り鉄批判に対して、私の考えをつらつら語っていきます。
なお、思考整理や画像生成の補助としてAIを活用することがあります。

「撮り鉄叩き」の現状と疑問

撮り鉄と聞いて、どういったものをイメージされるであろうか。
一般的には、鉄道を撮影する人全体を撮り鉄と呼ぶ。
しかし昨今の社会では、撮り鉄が蔑称のように感じられる。

ネット上では撮り鉄叩きがしばしばみられる。
その内容は多種多様であるものの、その内容は撮り鉄たちの迷惑行為など妥当な批判に加え、撮り鉄という趣味そのものや撮影者全体の批判など、言い過ぎだと感じられるものもある。

駅員や一般利用者への暴言、通行妨害、私有地への侵入、樹木の無断伐採、列車の安全運行を脅かす行為などは、当然ながら厳しく取り上げられるべきである。
本稿ではこれらの行為を擁護するつもりはない。そこは撮り鉄の方々も認識しているであろう。

しかし私が今回取り上げたい批判意見が、「同じ構図を撮って何が面白いの?」という観点である。
確かに非撮り鉄からすれば、似たような写真が既に数多く存在する中で、なぜ多くの人が同じ場所から同じような構図を狙うのか、理解しにくい部分はあるであろう。
だが他人に理解できない趣味であることと、その趣味が批判されるべきであることは同じではない。

「同じ構図を撮って何が面白いのか」という意見は迷惑行為への批判にとどまらず、撮り鉄という趣味の楽しみ方そのものへの否定に踏み込んではいないか

それぞれの言い分

まず非撮り鉄と撮り鉄のそれぞれの意見をまずは整理したい。

最初に非撮り鉄の主張より。

既に似たような写真がいくらでもある。紋切り型の写真で芸術性独自性があるようには思えない。

他人の写真を見れば車両の記録としては十分なのでは?なぜ自分で撮る必要があるのか。

同じ場所大量に集まり、同じ角度で撮る必要性は何か?

確かに撮り鉄という趣味を持たざる人にはこれらの意見は至極真っ当に感じられる。
つまり非撮り鉄は、主に写真を撮る意義を独自性や芸術性に見出しており、そこに立脚した批判を行っているように感じられる。

一方、撮り鉄の反駁は以下のようなものがみられる。
尚、これらがすべてではないことには留意いただきたい。

撮り鉄のやっていることは単なる写真収集ではなく、いかに完璧に近づけるかのゲームである。芸術性や独自性を追い求めるものではない。

写真撮影は資料の収集だけでなく、写真を撮る過程を楽しんでいる。

鉄道写真には世間からの需要があり、将来的には史料としての価値も生じる。

つまり撮り鉄は同じ構図で写真を撮ることが、一種のゲーム感覚であることを主張している。
撮り鉄側はあらかじめ思い描いた理想の構図に、どれだけ自分の写真を近づけられるかという過程を楽しんでいると主張する。

この考えは、撮り鉄にのみに帰着する論理ではないと考える。すでに優れた演奏が存在する曲を、自分でも演奏する。同じゲームを繰り返し、前回よりもよい記録を目指す。多くの人が撮影している絶景を、自分のカメラでも撮る。他人がすでに優れた結果を残していても、自分でその過程を経験し、納得できる結果を得ることには別の価値がある。

したがって非撮り鉄の主張する他人が撮った写真を見ればよいという意見は、すでに他人が優れた結果を残しているのだから、自分で行う意味はないという論理と同義であり、演奏や料理、スポーツ、ゲームなど、結果だけでなく自分で取り組む過程に価値を置く多くの趣味も否定されかねない

ここで重要なのは、撮り鉄の面白さをすべての人が理解する必要はないということである。「その面白さがわからない」という趣味があることは至極当然であり、全く問題ではない。
しかしそこから「同じ構図を撮る行為には意味がない」や「そのような趣味に価値はない」とまで主張するのはそれは迷惑行為の批判だけではなく、他人の趣味の楽しみ方そのものに対する否定となる。

そのため私は、「同じ構図を撮ってる撮り鉄」という批判は、非撮り鉄側の論理としては使うべきではないと考える。
批判されるべきことは同じ構図を撮ることではなく、その目的を達成するために公共空間を占有し、一般の通行人を排除し、他人の権利や安全を侵害することである。

一方で撮り鉄側の反駁も、すべてが的を射ているわけではない。
むしろその反駁の論理が、撮り鉄への批判をさらに強めている面もある。

鉄道写真には社会的な価値があるのか

撮り鉄の反駁を以て、非撮り鉄の指摘が趣味の否定になりうるという観点を示した。
その中で撮り鉄の反駁で一つ、あえて触れなかった意見がある。
それは鉄道写真には社会的な需要があり、将来的には資料としても価値があるという意見である。

撮り鉄は、しばしば同じ構図、似たような写真を撮っているという指摘に対し、世間一般の人々が鉄道写真を必要としている、または将来的に史料としての価値が生まれるという主張を行う。
この主張に対し、読者の方々はどのように感じられるであろうか。

鉄道写真を普段から検索される方、もしくは情報として欲する方が非撮り鉄の中でも確かに存在するであろう。「廃止された駅の当時の様子を調べた」や「地元の電車が新しくなったらしいから気になる」といった意見は、確かにネット上でも散見される。
このことから世間からの需要に関しては、なんとも言い切れない。

また社会的な意義についても、現時点で似たような写真が大量に存在していても、それらがすべて将来まで保存されるとも限らない。複数人が撮影することで、一部のデータが失われても、別の撮影者の記録が残る可能性は高くなる。すなわち同じ場所から同じ構図で撮影することにも、一定の意味は認められる
更に同一地点の写真を年代順に比較すれば、車両形式や塗装、編成、行先表示だけでなく、線路設備や周辺の街並みの変化まで確認できる。定型的な構図だからこそ、対象を比較しやすい場合もある。
したがって、鉄道写真に社会的・歴史的な価値が生じるという主張を、完全に否定することはできない

ただしそれを同一時間の同一箇所で集団で撮ることはどうであろうか。
鉄道の記録という目的だけを考えるなら、正面から編成全体を収めた写真だけでなく、車内、駅設備、沿線風景、利用者の様子など、異なる場所や角度から撮られた写真にも価値があるはずである。 
また、仮に鉄道写真の資料価値を最大化することが第一の目的なのであれば、極論ではあるものの、鉄道会社や鉄道博物館などが体系的に撮影・保存するほうが効率的ではないだろうか。鉄道会社であれば、車庫など一般の撮影者が立ち入れない場所でも撮影でき、車両形式や編成、改造履歴などの正確な情報とともに記録を残せる。
もちろん、個人が撮影した写真には、営業中の列車や沿線風景、当時の街並みなど、公式記録には残りにくい価値もある
しかし少なくとも将来の資料になるという理由だけでは同じ時間、同じ場所に多数の撮影者が集まり、ほぼ同じ構図を撮影する必要性までは説明できない

趣味に公益性は必要なのか

ここまで、「同じ構図」を理由とする非撮り鉄側の批判と、鉄道写真の公益性を主張する撮り鉄側の反論を検討した。
しかし、本稿で最も問題にしたいのは、鉄道写真にどれほど資料価値があるかではない。そもそも、趣味は社会的に有用でなければ認められないものなのだろうか。 

本稿最後に、この主張を行っていきたい。

趣味の意義

そもそも趣味とは、本人がやりたいから取り組まれるものである。趣味を始める動機は、純粋な興味だけとは限らない。他人に作品を見てもらいたい、仲間と交流したい、将来的には収益につなげたいと考える人もいるだろう。しかし、いずれの動機であっても、他人の権利や安全を侵害しない限り、それだけで趣味として成立する。 
撮り鉄も同様に「鉄道が好きだから撮影する」、「鉄道で友達が欲しいからいろんな写真を撮りたい」、といった、自発的な感情だけで趣味としては十分である。

だが撮り鉄はしばしば、自らの趣味の価値を社会的意義があると主張するがゆえに、非撮り鉄からその妥当性について指摘されるのである。
本来、如何なる趣味においても迷惑行為を行う人は一定数存在する。勿論、それらを容認するつもりは毛頭ないが、それは何ら不思議なことではない。ただ迷惑行為をした個人への批判と、趣味全体への否定は分けるべきである。
そのため撮り鉄の迷惑行為も本来は鉄道趣味の人々の迷惑行為程度で認識されるものであったかもしれない。
しかし撮り鉄は撮り鉄行為の社会的意義を論じるがゆえに、非撮り鉄からその行為による社会貢献度が迷惑行為によるデメリットと天秤にかけられ、無駄な批判されるポイントを増やしてしまっている
確かに駅や道路などの公共スペースが活動範囲となってしまっており、しかもそれが生活に直結する場所であるがゆえに、単なる迷惑行為であっても、他の趣味に比べ目につく回数は多い。
だがそこで自らのルールと論理を振りかざすがゆえに、より煙たがられているのではないか

撮り鉄への批判を弱めるために必要なのは、自分たちの社会的な有用性を大きく主張することではない。
自分の趣味であることを率直に認めたうえで、公共空間では一般利用者を優先し、撮影によって他人へ迷惑をかけない。
その姿勢を示すことのほうが、はるかに説得力があるように思う。

撮り鉄に対する私の考え

私は別記事にて鉄道について取り上げている。
そういった意味で鉄道趣味を持っているともいえる。
私は別にそれに対し恥じらいはない。

撮り鉄も本来、恥ずべき趣味ではない
私の知人にも撮り鉄趣味の人がいるが、迷惑行為を働く人間だとは思っていない。
一部の撮影者による行為と、同じ趣味を持つ人全体は分けて考える必要がある

一方で、公共空間で撮影する以上、撮影者の理想よりも一般利用者の安全や通行が優先される。
界隈の中で共有されている構図や撮影上のルールを持つこと自体は問題ではない。しかし、それは無関係な一般利用者にまで従わせられるものではない。
撮り鉄側も、自分たちの写真が社会に必要とされていることを強調し、撮影の優先権を得ようとする必要はない

自分が好きだから撮影している。
だからこそ、他人に迷惑をかけない。

その姿勢で十分である。

非撮り鉄側も、具体的な迷惑行為を批判することと、「同じ構図を撮って何が面白い」「撮り鉄は全員おかしい」と趣味や撮影者全体を嘲笑することは分けるべきだろう。

撮り鉄による迷惑行為は、当然非難されるべきである。
しかし、迷惑行為をする撮影者が存在することは、鉄道写真という趣味そのものや、その趣味を持つすべての人を否定してよい理由にはならない。

批判されるべきなのは、趣味ではない。
その趣味のために、他人の権利や安全を侵害する行為である。

これが本稿における私の結論である。

本稿の内容を踏まえたうえで、皆様のお考えになられたことを忌憚なく書き込んでいただけると私の「哲学」がアップデートされる励みになります。

今回はお疲れ様でした。

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